サンスクリット語で「私は与える」は、たった一語——dadāmi。英語の I give、日本語の「私は与える」のように、「私」にあたる独立した単語はどこにも見当たらない。この「私」は、いったいどこに消えたのか。ボップの答えは、驚くべきものだった——消えたのではない。語尾の中に、姿を変えて残っているのだ。

語尾「mi」の正体

ボップは、動詞の語尾 -mi(dadāmi の「-mi」の部分)の由来を、こう突き止める。

…so halte ich mi für eine Schwächung der Sylbe ma…, welche im Sanskrit und Zend den obliquen Casus des einfachen Pronomens als Thema zum Grunde liegt. (……私は mi を、音節 ma が弱まったものだと考える。この ma は、サンスクリット語とゼンド語において、単純代名詞〔「私」〕の斜格〔主語以外の格〕の語幹をなしているものである。)

サンスクリット語には、「私」を意味する代名詞の、主語以外の場面で使う形——英語でいえば I に対する me にあたる形——に、ma という語幹が現れる。ボップの主張は、動詞の語尾 -mi は、この ma が弱まって、動詞にくっついたものだ、というものだ。つまり dadāmi は、もともと「与える+私」という、二つの単語が合体したものだった。長い年月のあいだに、後ろの「私」の部分が独立した単語としての存在感を失い、単なる語尾へと擦り減っていった——というのがボップの筋書きである。

大昔(想定される姿) サンスクリット語(現在の姿) dadā 「与える」 ma 「私」(代名詞) dadā-mi 「私」を意味していた ma が擦り減り、動詞の語尾 -mi になった 独立した単語だったという記憶は失われ、文法の一部として化石化する
dadāmi——「与える」と「私」が一語に融合するまで。図:ToL

語尾は、文法の化石だった

この発見が示すのは、動詞の人称語尾は、もともとは独立した単語——代名詞——だったという考え方である。「私は与える」を「与える+私」という一語にまとめてしまうのは、実は多くの言語に見られる、ごく自然な成り行きだ。何度も何度も同じ組み合わせで使われるうちに、二つの単語の境目が意識されなくなり、後ろの単語は独立性を失って、前の単語にくっついた「語尾」に姿を変えていく。この記事の別の記事で読んだ「言語は生き物」という発想を思い出してほしい——語尾とは、かつて独立して動いていた器官が、長い年月のなかで本体に融合してしまった、文法の化石なのだ。

まとめ

論点内容
出発点の謎dadāmi(私は与える)に、独立した「私」の単語が見当たらない
ボップの発見語尾 -mi は、代名詞「私」の語幹 ma が弱まったもの
導かれる理論dadāmi は、もとは「与える+私」という二語だった
一般化される考え方動詞の人称語尾は、もとは独立した代名詞だった

一言でいえば——「私」は消えたのではない。動詞の語尾のなかに、姿を変えて、今も生き続けている。