この特集の概要記事で触れたとおり、ボップの1816年の仕事は、グリムやラスクよりも早く世に出ていた。では、ボップ自身はグリムの仕事をいつ、どう知ったのか。序文の脚注に、その答えが記されている。

序文の脚注に残された、すれ違い

ボップは、自分の1816年の著作を1820年に英語版として書き直した経緯を振り返りながら、こう付け加える。

Grimms meisterhafte deutsche Grammatik war mir leider bei Abfassung der englischen Umarbeitung noch nicht bekannt geworden, und ich konnte damals für die altgermanischen Dialekte nur Hickes und Fulda benutzen. (グリムの見事なドイツ語文法は、残念ながら、あの英語版の書き直しを執筆していた当時、私にはまだ知られていなかった。当時、古ゲルマン諸方言について私が使えたのは、ヒックスとフルダだけだった。)

1820年の時点で、ボップはまだグリムの仕事を知らなかった。二人は同じ時代に、同じ問題に、別々の場所から取り組んでいたことになる。ラスクの特集で読んだ「先に見つけた者の名前が、必ずしも残るとは限らない」という教訓は、ここでも形を変えて繰り返されている——ボップ・ラスク・グリムの三人は、互いにどこまで読み合っていたかがそれぞれ違う、複雑な絡み合いのなかで、比較言語学という一つの学問を作り上げていった。

ボップ 1816年 ラスク 1818年 グリム 1822年 三者三様の経路で、同じ学問に別々にたどり着いた
ボップ・ラスク・グリム、互いの認知のずれ。図:ToL

比喩が育てたもの、そして育ちすぎたもの

「言語は有機体」という発想は、ボップの世代のあとも、比較言語学に長く生き続けた。だが、その育ち方には影の部分もある。ボップの死の翌年に亡くなった言語学者アウグスト・シュライヒャーは、この比喩をさらに推し進め、言語どうしの関係を、まるで生物の種のように、進化論の言葉そのもので語る「系統樹説」を打ち立てた。比喩として言語を「生き物」にたとえることと、言語の変化を文字どおり生物進化のプロセスとして扱うことのあいだには、実は大きな隔たりがある。この隔たりを踏み越えた先に、のちの世代が言語の「健康」「退化」といった評価を、特定の民族や言語の優劣へとすり替えていく——マックス・ミュラー特集イェスペルセン特集で読んだ問題も、根をたどれば同じ土壌に行き着く。

ボップ自身の序文にも、この時代特有の偏りは顔をのぞかせている。彼はセム語族を「より粗野な性質」(derberen Natur)と評し、インド・ヨーロッパ語族の「豊かな備え」と対比させている。文法の型の違いを、優劣の序列として語ってしまう——この癖は、ボップ一人のものではなく、19世紀の比較言語学全体に染み込んでいた前提だったことは、正直に記しておく必要がある。

まとめ

論点内容
グリムとの関係1820年の時点では互いの仕事をまだ知らなかったことが、脚注から確認できる
比喩が生んだ成果「言語は有機体」という発想が、語尾の化石化理論など、実り多い分析を支えた
比喩が生んだ影シュライヒャーらが、この比喩を文字どおりの進化論へと推し進めた
残る課題セム語族を「粗野」と評するなど、言語の型に優劣をつける19世紀の偏りが、ボップ自身の文章にも見られる

一言でいえば——ボップ・ラスク・グリムは、互いに知らないまま、同じ山の別々の斜面を登っていた。そしてボップが手にした「言語は生き物」という強力な比喩は、豊かな発見を生むと同時に、次の世代の手で、もっと危うい方向にも育っていった。