この特集は、概説記事から始まり、太刀・曇る・涙・東西南北、耳目鼻口の論、そして「朝鮮に於ける国語問題」を、金沢庄三郎の原文で読んできた。最後に、それぞれが現在どう扱われているかを整理する。
なお、この記事の「現在の扱い」は、日本語学の一般に知られた整理であり、個々の論文を、一つずつ確認したものではない。断定を避けるため、確実なものと、そうでないものを分けて書く。
残った見方——物の名から動作の語へ
『国語の研究』の語源論の根にあったのは、物の名前と、その動作を表す語のあいだを、行き来するという見方だった。「雲」から「曇る」、「力」から「力む」のように、名詞から動詞が生まれる道筋は、現在の日本語学でも、語の作られ方の基本的な型の一つとして扱われている。この見方そのものは、生き残った。
ただし、これは、個々の例がすべて正しい、という意味ではない。たとえば「太刀」を「截り断つ」から説明する話のように、一つ一つの語源説は、別々に検討されるべきものである。生き残ったのは見方の型であり、個々の答えの多くは、なお検討の対象である。
なお紹介される——東西の「し」
東西南北の章で、金沢が従った、「ひがし」「にし」の「し」は風の古名だ、という説は、本居宣長にさかのぼり、今も語源説の一つとして紹介される。ここは、金沢の独創ではなく、先人の説を、証拠を足して紹介した部分である。
一方、東と西を、民族の移動の方向から説明する部分は、金沢自身が「まだ不完全」と断った推測であり、確かな証拠のある説ではない。金沢が、確かな部分と不確かな部分を、自分で分けて書いていた点は、記しておきたい。
証明されなかった——耳目鼻口と日韓同系論
「泣く」の「な」は目の古語ではないか、という指摘は、一つの説として、語の由来を考える話に、今も顔を出す。しかし、それが定説になっているとは言えない。
問題は、その先である。金沢は、「言ふ」と ip、「聞く」と kui、「嗅ぐ」と kho のように、日本語の動作の語と朝鮮語の体の部分の名を、並べた。精読の記事で確かめたとおり、そこでは音がどう規則的に対応するのかが示されていない。二つの言語の系統関係を証明するには、この規則的な対応を示すことが、基本的な手続きである。現在、日本語と朝鮮語の同系は、証明された定説とは扱われていない、というのが、一般的な整理である。
政治の場で用いられたこと
日韓同系論は、学問の上の仮説にとどまらなかった。「朝鮮に於ける国語問題」の精読で見たとおり、金沢自身が、併合の年に、朝鮮語を「帝国の一方言」と位置づける枠組みを、同系論と結びつけて書いた。金沢は、のちの1929年にも、『日鮮同祖論』という題の本を出している(内容は、この特集では確認していない)。
後の時代の研究者たちは、こうした同系論・同祖論が、植民地支配の下で、日本語や日本の支配を正当化する議論に、しばしば結びつけて用いられたことを、批判的に論じてきた。学問の上で証明されなかった仮説が、政治の場で、確かなものであるかのように用いられた。この点は、金沢個人への評価とは別に、同系論という仮説の、その後の歴史として、確かめておく必要がある。
同時に、公平のために書いておく。金沢は、「朝鮮に於ける国語問題」で、日本語だけでの急な置き換えには反対し、朝鮮語をすぐには変えられないものとして扱った。その論が、同系論を前提にした枠組みのなかにあったことと、この慎重な態度があったことは、両方とも、原文に書かれている事実である。
特集の位置づけ
この特集で読んだのは、『国語の研究』(1910) の一部である。金沢は、上田万年との共訳で、セース『言語学』(1898) を出し、また1907年には、辞書『辞林』を編んだ。日本の言語学の、草創期を担った人の一人である。その仕事の、学問として残ったところと、残らなかったところ、そして政治の場で使われたところを、混ぜずに見ることが、この特集の目的だった。
まとめ
| 論点 | 現在の扱い(一般的な整理) |
|---|---|
| 物の名⇄動作の語 | 語形成の見方として残る。個々の語源説は別に検討される |
| 東西の「し」=風 | 本居宣長以来の説として、今も紹介される |
| 東西の民族移動説 | 金沢自身が「不完全」と断った推測 |
| ナ=目 | 一つの説。定説とは言えない |
| 耳目鼻口と朝鮮語の対応 | 規則的な音の対応が示されず、証明されていない |
| 日韓同系論 | 証明された定説ではない。植民地支配の下で、政治的に用いられた |
一言でいえば——金沢庄三郎の、語の生まれ方を見る眼は残った。しかし、日本語と朝鮮語を結ぶ証明は残らず、その仮説は、政治の場で、必要以上の重さを負わされた。