前の記事で、奈良時代の日本語には、現代語より多い八つの母音があったとする説を見た。この説を支える、もう一つの強い証拠が、「有坂の法則」と呼ばれる規則性である。1930年代に、有坂秀世が見つけた。

なお、この記事の内容は、日本語学の広く知られた事実として説明したものである。有坂自身の論文からの引用は含まない。

「語根」という単位

この法則を説明するには、「語根」ということばが必要になる。語根とは、ひとまず、もとになる一つの語の芯のことである。たとえば、「心」のような、それ以上、意味のある部品に分けられない語を、一つの語根と考えればよい。「山」+「道」のように、二つの語を合わせてできた複合語は、二つの語根を含んでいる。

法則の中身

有坂が見つけたのは、次のことである。

奈良時代の日本語では、一つの語根のなかに、オ列乙類の母音(ö)と、次の三つの母音は、一緒に現れない。

語根のなかで、オ列乙類(ö)と…共存するか
ア列の母音(a)しない
ウ列の母音(u)しない
オ列甲類の母音(o)しない

つまり、乙類の「お」を含む語根は、乙類の「お」の仲間どうしで固まるか、あるいはイ列やエ列の母音と組み合わされる。ア・ウ・甲類の「お」と、同じ一つの語根のなかで並ぶことは、ふつうない。

たとえば、「心」という語は、奈良時代の万葉仮名では、三つの音節のすべてが、乙類のオ列の仮名(ko₂・ko₂・ro₂)で書かれる。一つの語根のなかで、乙類のオ列の音だけが揃っている、法則に合った例である。

一つの語根のなかで、オ列乙類(ö)は… ö a u o 同居しない 同居しない (o は甲類のオ列)
有坂の法則のイメージ。図:ToL

なぜ、母音の違いの証拠になるのか

この法則が重要なのは、母音どうしの組み合わせの規則だからである。もし、甲乙の違いが、母音ではなく、頭の子音の違いだったとしたら、「乙類のオ」が、他の母音(ア・ウ・甲類のオ)とだけ、こうした規則的な関係を持つ理由が見当たらない。ところが、乙類の母音が、他の母音と「相性」を持つ、独立した母音だと考えれば、この規則性は、自然に説明できる。他の言語の母音調和(一つの語のなかの母音が、ある性質で揃う現象)を思わせる現象が、奈良時代の日本語にもあったことになる。

注意しておきたいこと

この法則が成り立つのは、一つの語根のなかである。複合語(二つの語根が合わさったもの)や、後から入ってきた外来語のなかでは、これらの母音が並ぶことがある。また、法則の細かい適用範囲や例外については、その後の研究で、さまざまな議論が重ねられている。この記事で紹介したのは、その基本の骨格だけである。

まとめ

論点内容
法則の内容一つの語根のなかで、オ列乙類の母音は、ア・ウ・オ列甲類の母音と共存しない
「心」は、三つとも乙類のオ列の仮名で書かれ、乙類の音だけが揃っている
意義母音どうしの組み合わせの規則なので、甲乙の違いが母音の違いだったことの強い証拠になる
注意成り立つのは一つの語根のなか。複合語や外来語では並ぶことがある

一言でいえば——奈良時代の日本語の一つの語根のなかには、乙類のオ列の母音と一緒には並ばない母音があった。この規則性が、甲乙の違いを、母音の違いとして裏づけた。