橋本進吉の特集の終わりで、橋本が見つけた万葉仮名の甲類・乙類の区別は、「音の正体は、まだ決めつけない」という慎重な態度とともに、次の世代に手渡された。この特集で読む有坂秀世(1908–1952)は、その次の世代の代表である。40代前半で亡くなったが、日本語の古い音の姿と、そもそも「音」とは何かという問いに、二つの大きな貢献を残した。
二つの仕事
- 奈良時代の日本語の母音が、八つあったのではないかという説と、その裏づけになった、語のなかの母音の組み合わせの法則(「有坂の法則」)。橋本が並べた「き」「け」「こ」などの甲乙が、母音の違いだったという見方を、有坂は、語の内側の規則性から支えた。
- 『音韻論』(1940)。日本語の実例を使いながら、音声と音韻の区別、そして音韻の体系とは何かを、当時のヨーロッパの最新の理論(ソシュール、プラハ学派)と正面から議論して組み立てた本。
この特集の見取り図
まず、三つの記事で、日本語の音そのものの話をする。五つの母音が八つになるという話(やさしい解説①)、語のなかで一緒に現れない母音の組み合わせ(やさしい解説②)、そして、「ん」の音は本当に一つなのかという、音と音韻の話(やさしい解説③)である。そのあと、『音韻論』の原文から、二つの箇所を読む。音韻を「貨幣」にたとえた箇所(原文精読①)と、音韻の体系は「祖先から受け継いだ制度」だと述べた箇所(原文精読②)である。最後に、有坂の仕事が現在どう評価されているかをまとめる(遺産と判定)。
先に、お断りしておきたいこと
この特集の一次資料は、有坂の『音韻論』である。国立国会図書館で、誰でも閲覧できる。一方、八母音説と有坂の法則を最初に述べた論文は、自由閲覧の形では公開されていない。そのため、この二つの話(やさしい解説①②)は、日本語学の広く知られた事実として説明しており、有坂自身の文章の引用は含まない。その点は、各記事で明記する。
まとめ
| 論点 | 内容 |
|---|---|
| 誰が | 有坂秀世(1908–1952) |
| 二つの仕事 | 古い日本語の母音の研究(八母音説・有坂の法則)と、『音韻論』(1940) |
| 橋本進吉との関係 | 橋本が整理した甲乙の区別を、母音の違いとして解釈する道筋を、語の内側の規則性から支えた |
| 一次資料 | 『音韻論』(国立国会図書館で自由に閲覧できる) |
一言でいえば——有坂秀世は、橋本が見つけた「二つの音」の正体に迫ると同時に、そもそも「音を区別する」とはどういうことかを、日本語の実例をもとに問い直した。