概要記事で見たとおり、第三回記念講演は「言語と文字」という第一の窓だけの講演ではない。ジョーンズはこのあと、第二の窓「哲学と宗教」に進み、そこで同じ比較の手つきを、まったく違う対象に向ける。その結果は、鋭い洞察と、明らかな行き過ぎが同居する、興味深いものになった。

プラトンは、インドの賢者と同じ泉から汲んでいた?

インドの宗教・哲学を論じ始めてすぐ、ジョーンズはこう書く(原文の日本語訳・英訳は ToL による。以下同じ)。

Nor is it possible to read the Vedánta… without believing that Pythagoras and Plato derived their sublime theories from the same fountain with the sages of India. (ヴェーダーンタを読んで……ピュタゴラスとプラトンが、その崇高な理論をインドの賢者たちと同じ泉から汲み取ったのだと信じずにはいられない。)

言語で使った論理——深いレベルでの類似は、偶然でも独立の発明でもなく、共通の源泉を示す——を、ジョーンズはここで哲学にまで広げている。ギリシア哲学とインド哲学が、遠く離れた場所でそれぞれ独立に似た結論にたどり着いたのではなく、どこかでつながっていたはずだ、という見立てだ。

神々の対応表

宗教についても、ジョーンズは同じ発想で臨む。ギリシア・ローマの神々と、ヒンドゥーの神々のあいだに、対応する組み合わせを見つけようとするのだ。ネプトゥヌスの三叉戟、ユピテルの鷲、バッコスの半獣神、キューピッドの弓、太陽の戦車——一方にはこうしたギリシア・ローマの神々の姿があり、もう一方には対応する要素を持つヒンドゥーの神々の姿がある、とジョーンズは示唆する。バラモン僧と、クレメンスが言及する「サルマネス」(インドの苦行者たち)が、論理学の形式や、魂の不滅について論じ合う姿も引き合いに出される。

ギリシア・ローマの神々 ネプトゥヌスの三叉戟 ユピテルの鷲 バッコスの半獣神 キューピッドの弓、太陽の戦車 ヒンドゥーの神々 対応する要素を持つ ヒンドゥーの神々 言語の比較で使った同じ論理——深い類似は共通の源泉を示す——を、神話にも適用
ジョーンズがギリシア・ローマとヒンドゥーの神々のあいだに見た対応。図:ToL

行き過ぎの実例——オーディンと仏陀

だが、同じ勢いのまま、ジョーンズは明らかに無理のある結びつけにも踏み込んでいく。

Nor can we doubt that Wod, or Oden… was the same with Buddh, whose rites were probably imported into India nearly at the same time, though received much later by the Chinese, who soften his name into FO’. (北欧の歴史家たちも認めるとおり、外来の民族によってスカンジナビアにもたらされたオーディンの信仰は、仏陀と同一のものだったに違いない。仏陀の儀礼はほぼ同時期にインドへ伝わったのだろう。もっと遅れて受け取った中国人は、その名を和らげて「仏(FO)」とした。)

北欧の神オーディンと、仏教の開祖である仏陀とを、同一人物として扱っている。これは現代の視点から見れば、根拠のない、かなり無理のある主張だ。オーディンと仏陀のあいだに、言語的にも歴史的にも、実際の系統関係は確認されていない。ジョーンズがここで頼っているのは、言語の議論で示したような「動詞の語根と文法形式の一致」という具体的な根拠ではなく、「どちらも偉大な宗教的人物である」という、はるかに緩い類似にすぎない。

さらに——ラーマとインカ帝国

行き過ぎはこれだけではない。ジョーンズはヒンドゥー教の神ラーマの物語を論じたあと、こう続ける。ペルー(インカ帝国)の人々が、自分たちの王家の血統を誇り、最大の祭りを「ラーマシートア」と呼んでいたことは「実に注目すべき」であり、そこから南アメリカも同じ民族によって——ラーマの儀礼と伝説をアジアの最果てまで運んだ同じ民族によって——人が住みつくようになったのかもしれない、とまで示唆する。太平洋を越えてインドとペルーの文化を結びつけるこの推測は、今日の人類学・歴史学のどんな知見によっても裏づけられていない。

それでも、ジョーンズは無自覚ではなかった

興味深いのは、ジョーンズ自身が、こうした比較の危うさにまったく気づいていなかったわけではない、という点だ。彼はこの直前で、ある人物が「アテナイ人が、パンディオーンの追放とアイゲウスの復位という自分たちの神話を、アジアの物語——パーンドゥ family とユディシュティラの物語——で脚色したのかもしれない」と推測したことについて、「もし彼がそこまで論じるつもりだったなら、私は彼の推測を軽々しく嘲りはしないだろう」と述べている。慎重な留保を付けながらも、結局は似たような、あるいはそれ以上に大胆な比較(オーディン=仏陀、ラーマ=インカ)に、みずから踏み込んでしまう。方法への自覚と、その方法を踏み外す誘惑が、同じ一人の書き手の中に同居している——これが、この講演のもう一つの読みどころである。

まとめ

対象ジョーンズの主張評価
サンスクリット語・ギリシア語・ラテン語動詞の語根・文法形式が一致、共通の祖語に由来のちに検証され、確立された
プラトン・ピュタゴラスとヴェーダーンタ同じ源泉から出た可能性検証困難な示唆にとどまる
ギリシア・ローマの神々とヒンドゥーの神々対応する要素がある具体的な検証はされていない
オーディンと仏陀同一人物根拠なし、今日では否定される
ラーマとインカ帝国の祭り同じ民族による伝播根拠なし、今日では否定される

一言でいえば——ジョーンズの比較の方法は、動詞の語根という具体的で検証可能な根拠に支えられているときは、二百年以上の検証に耐えた。だが同じ方法が、神話や伝説という、もっと緩やかな類似にまで適用されたとき、それは容易に行き過ぎへと転じた。どこまでが検証可能な比較で、どこからが無根拠な思いつきか——その境界線を見極めることの難しさを、この一つの講演が体現している。