1786年2月2日、インド・カルカッタ。ウィリアム・ジョーンズ(1746–1794)という一人のイギリス人判事が、自ら創設した学術団体「アジア協会」の年次講演に立った。用意していたのは、インドの歴史・宗教・言語・建築・学問を広く見渡す長い講演——のちに「第三回記念講演」(The Third Anniversary Discourse)と呼ばれるものだ。その中盤、言語について語ったわずか一段落が、のちに比較言語学、そして「インド・ヨーロッパ語族」という発想全体の出発点になる。

判事にして語学の天才

ジョーンズはロンドンに生まれ、ハロウ校からオックスフォード大学ユニヴァーシティ・カレッジに進み、ラテン語・ギリシア語・ヘブライ語・アラビア語・ペルシア語を学んだ。生涯で学んだ言語は28にのぼるとされ、独学で身につけたものも多い。1771年に出した『ペルシア語文法』は、当時の標準的な教科書として長く読まれた。だが学問だけでは生計が立たず、1774年に法廷弁護士の資格を取る。1783年に騎士に叙せられ、カルカッタの最高裁判事としてインドへ赴任。翌1784年1月、東洋学の研究を進めるための学術団体「アジア協会(Asiatic Society of Bengal)」を自ら創設し、初代会長となった。

赴任からわずか2年後、1786年2月2日の年次講演——これが本稿で扱う「第三回記念講演」である。会長就任からまだ間もない時期に、これほど射程の長い議論を組み立てられたのは、オックスフォード時代からの語学的な素地と、東洋学者としてすでに築いていた評価があったからにほかならない。

サンスクリット語を学び始めたのも、純粋な学問的関心だけからではない。判事として、ヒンドゥー法とイスラーム法を体系立てて英語圏の法体系に組み込む大部の法典編纂を計画しており、そのためには原典を自分で読む必要があったのだ。言語学史上もっとも影響力の大きい発見の一つは、植民地行政のための実務的な動機から生まれた——この事実は、以下の内容を読むうえでも留めておく価値がある。当時のヨーロッパにとって、サンスクリット語はほとんど未知の言語だった。ジョーンズ以前にヨーロッパ人でこの言語を本格的に学んだ者はごくわずかで、ヴェーダや古典文学の原典は、現地のパンディット(学僧)を介さなければ読み解けないのが実情だった。ジョーンズは判事としての実務を通じて、まさにその原典に直接あたる機会と必要性の両方を手にした、稀有な立場にいたことになる。

四つの窓——講演の見取り図

講演の冒頭でジョーンズは、なぜインドの古代史を知ることがこれほど難しいかを嘆く。ギリシア人はアレクサンドロス大王とともにインドへ入ったのに、当時の現地語について正確な記録をほとんど残さなかった——そう惜しんだうえで、自ら見取り図を示す。探究心を満たす手立ては、おおよそ四つしかない。第一に言語と文字、第二に哲学と宗教、第三に彫刻・建築の現存する遺物、第四に諸学問・諸技芸の文字による記録である(英語からの引用の日本語訳・英訳は ToL による。以下同じ)。講演はこのあと、宣言どおり四本柱の順に進む。あの有名な一段落があるのは、**第一の柱「言語と文字」**を扱う節の中だ。

「偶然には起こりえない」——あの一段落

第一の柱の節で、ジョーンズはまずヒンディー語とサンスクリット語の関係を論じる。征服者の言語は、たいてい土着の言語に語彙だけを残して消えていく——トルコ語がギリシアに、サクソン語がブリテンに残した痕跡のように。だから北インドの話し言葉ヒンディーは、サンスクリットに由来する語をいくらか含みながらも、文法の骨格そのものは別の起源を持つのではないか、とジョーンズは推理する。この、語彙の借用と、文法構造そのものの継承とを注意深く区別する態度が、次の段落への布石になる。ヒンディー語の話を終えたすぐあとで、ジョーンズはこう続ける。

The Sanscrit language, whatever be its antiquity, is of a wonderful structure; more perfect than the Greek, more copious than the Latin, and more exquisitely refined than either; yet bearing to both of them a stronger affinity, both in the roots of verbs, and in the forms of grammar, than could possibly have been produced by accident; so strong, indeed, that no philologer could examine them all three without believing them to have sprung from some common source, which, perhaps, no longer exists. (サンスクリット語は、その古さがどうであれ、驚くべき構造を持っている——ギリシア語よりも完成されており、ラテン語よりも語彙が豊かで、そのどちらよりも精緻に洗練されている。それでいて、動詞の語根においても文法の形式においても、両者に対して、偶然には生まれえないほど強い類似性を示している。その類似は実に強く、この三つの言語をつぶさに検討した文献学者であれば誰でも、それらが何らかの共通の源——おそらくはもはや現存しない——から生まれたのだと確信せずにはいられないほどだ。)

続けて、ゴート語(ゲルマン語派の古語)とケルト語も同じ起源を持つ可能性が高く、古代ペルシア語も同じ系統に加えられるかもしれない、と付け加える。「偶然には生まれえない」affinity(類似性)は、共通の祖先の証拠になる——この一文こそ、比較言語学という学問の出発点になった論理そのものである。

注意したいのは、ジョーンズがここで持ち出す根拠が、単語の見た目の響きの類似ではないという点だ。「動詞の語根」と「文法の形式」——つまり、活用のパターンや文法的な骨組みという、借用されにくい深いレベルでの一致を、彼は類似の証拠として挙げている。語彙は貿易や征服を通じて簡単に行き来するが、文法構造はそう簡単には伝わらない、という直観が、この一文の背後にある。だからこそ「偶然」でも「借用」でもなく「共通の祖先」だ、という結論に説得力が生まれる。

講演全体を通して見ると、ジョーンズの姿勢には一貫した慎重さがある。「偶然には生まれえない」と言い切る一方で、「その共通の源は、おそらくはもはや現存しない」と、失われた祖語という仮説そのものにも留保をつける。古代ペルシア語を同じ系統に加える提案でも「もしここがペルシアの古代史を論じる場であれば」と条件をつけて、結論を急がない。断定と留保のバランスをここまで意識して書ける文章家だったからこそ、この一段落は後世の学者たちに、根拠薄弱な思いつきではなく、検証に値する仮説として受け止められたのだろう。

共通の祖語 「おそらくはもはや現存しない」 サンスクリット 核となる3言語 ギリシア語・ラテン語 動詞の語根と文法形式が一致 ゴート語 同起源の可能性大 ケルト語 同起源の可能性大 古代ペルシア語 留保つきで加えられるかも 実線=ジョーンズが確信をもって述べた関係/点線=留保つきで示唆した関係
ジョーンズが第三回記念講演で素描した語族仮説。図:ToL

見落とされがちな、もう一つの観察

この段落ばかりが引用されるが、ジョーンズは同じ講演のすぐあとで、まったく別の言語群についても興味深い指摘をしている。中国・日本で使われる「観念を表す記号」(表意文字)は、インドや西アジアの表音文字とは「まったく性質が異なる」としながらも——

the order of sounds in the Chinese grammars corresponds nearly with that observed in Tibet, and hardly differs from that which the Hindus consider as the invention of their Gods. (中国語文法における音の並び方が、チベットで見られるそれとほぼ対応しており、ヒンドゥーたちが神々の発明とみなす〔梵語の音韻順序〕とほとんど変わらない。)

インド・ヨーロッパ語族の発見の陰に隠れがちだが、ジョーンズはこの一節で、のちの「シナ・チベット語族」的な発想にも触れている。一つの講演の中に、二つの異なる語族仮説の芽が、ともに置かれていたことになる。

まとめ

論点講演の内容
誰が、いつウィリアム・ジョーンズ、1786年2月2日、カルカッタのアジア協会年次講演
講演全体の構成言語と文字/哲学と宗教/彫刻と建築/諸学問と諸技芸、の四本柱
中心の発見サンスクリット・ギリシア語・ラテン語の類似は偶然ではなく、共通の祖語に由来する
付け加えられた系統ゴート語・ケルト語(同系の可能性)、古代ペルシア語(同系かもしれない)
もう一つの観察中国語とチベット語の音韻的対応(別系統の語族仮説の芽)
動機ヒンドゥー法・イスラーム法の法典編纂という、植民地行政上の実務的必要

一言でいえば——一人の判事が講演の中でふと漏らした「偶然ではありえない」という一言が、その後二百年以上にわたる比較言語学、そして「言語は歴史的に枝分かれする」という発想全体の出発点になった。

なぜ今も読まれるか

ジョーンズの主張そのものは、実はまったくの前例なしではない。16世紀イタリアの商人フィリッポ・サッセッティが、インドに滞在中にサンスクリット語とイタリア語の類似に気づいて手紙に書き残していたし、18世紀フランスの宣教師ガストン=ローラン・クールドゥーも、サンスクリット・ギリシア語・ラテン語の対応表をフランス学士院に提出していた——だがどちらも当時ほとんど知られず、学問の流れを変えることはなかった。ジョーンズの一段落が特別なのは、内容の独創性そのものよりも、東洋学者として最高の権威を持つ人物が、公の場で、明確な言葉で言い切ったという点にある。会長就任からの講演という公的な性格、出版され広く読まれた「アジア研究論集」という媒体、そして「28の言語を操る」という本人の権威——このすべてが重なって初めて、一つの段落が学問の流れそのものを変える力を持った。

この一段落は、ジョーンズ自身が体系立てたわけではない。「共通の源」への言及はあっても、その源がどんな言語だったか、いつ、どこで話されていたかについて、彼は何も述べていない。その空白を埋める作業——実際に音の対応規則を突き止め、祖語のかたちを再構成していく仕事——は、この講演から一世代以上のちに、ドイツ語圏の学者たちの手で進められることになる。フランツ・ボップ、ラスムス・ラスク、そしてヤーコプ・グリム——この流れは、この特集の次の記事で詳しく見ていく。