概要記事で見たとおり、オースティンは「誓います」のような、言うことがそのまま行為になる文を「遂行文」と名づけた。だが、この名づけの過程そのものと、そこから先に立ちはだかる困難には、まだ立ち入っていない。

1. なぜ「操作的」ではなく「遂行的」なのか

遂行文にふさわしい名前を探る過程で、オースティンはまず候補を退けていく。「契約的(contractual、“I bet”のような)」「宣言的(declaratory、“I declare war”のような)」といった語は、遂行文の一部を言い当てるにはよいが、全体を覆うには狭すぎる。法律家が証書の中で、取引を実際に成立させる条項(残りは単に事情を「述べる」だけの部分)を指して使う「操作的(operative)」という専門語が、もっとも近いようにも思える——この指摘はH・L・A・ハート教授(法哲学者)から得た、とオースティンは注記している。だが「operative」はふだん「重要な」という程度の意味で使われがちで、ぴったりではない。そこでオースティンは、語源は無関係ではないが先入観のこびりついていない新しい語として「遂行的(performative)」を選ぶ。

2. 「言うことがそうすること」なのか——ことばなしでも同じ行為はできる

見出し「言うことがそうすることになりうるか」(Can saying make it so?)のもとで、オースティンは自分の主張に対する、もっともな反論を先取りする——「結婚するとは、いくつかの言葉を言うことだ」「賭けるとは、単に何かを言うことにすぎない」と言えば、最初は奇妙に、あるいは軽薄にさえ聞こえるだろう、と。なぜ奇妙に聞こえるのか。それは、まったく同じ種類の行為が、ことばを使わずにできる場合があるからだ。

I may in some places effect marriage by cohabiting, or I may bet with a totalisator machine by putting a coin in a slot. (場所によっては、同棲することによって結婚を成立させることもできるし、投票機(トータリゼーター)にコインを入れることで賭けを成立させることもできる。)

だからオースティンは主張を微調整する。ことばを発することは、その行為の遂行にとって、たいてい「主要な、あるいは唯一の手がかり」ではあっても、決して唯一必要なものではない。一般に必要なのは、ことばが発せられる状況が適切であること、そして話し手自身や関係者が、それに加えて然るべき「物理的な」行為や「心の中の」行為を伴わせることだ。船に名前をつけるには、名づける資格を持つ人物でなければならない。〔キリスト教式の〕結婚をするには、存命で正気の、離婚していない配偶者がすでにいてはならない——オースティンはこの二つを、資格・状況の適切さを示す具体例として挙げている。

つまり「言うことがそうすることになる」というのは、「ことばさえあれば十分」という意味ではなく、「適切な状況・適切な資格・適切な手続きのもとでは、ことばを発することが、まさにその行為の遂行そのものとして数えられる」という意味なのだ。この「適切さ」の中身を体系立てたものが、次の記事で扱う「適切性条件」である。

3. 文法・語彙だけでは、線を引けない

遂行文を文法的な特徴だけで見分けられないか——オースティンはこの可能性を粘り強く検討するが、最後には行き詰まりを認める。

We may get the performative without the operative words thus: In place of ‘dangerous corner’ we may have ‘corner’ … We may get the operative word without the utterance being performative, thus: In cricket a spectator may say ‘it was over (really)’. (操作的な語なしで遂行文になる場合がある。「危険な曲がり角」の代わりに、ただ「曲がり角」と書いてもよい。……逆に、操作的な語があっても遂行文にならない場合もある。クリケットの観客が「〔本当は〕オーバーだった」と言うことがある。)

「命令法の動詞はすべて遂行文だ」というような単純な文法規則を立てても、必ず反例が見つかる。単一の、単純な基準では遂行文と事実確認文の境界線を引けない——これがこの探究のいったんの結論であり、皮肉なことに、この行き詰まりこそが、次の一歩(もっと広い一般理論への転換)を用意することになる。

操作的な語が「なくても」遂行的 "dangerous corner" → "corner" "I promise to..." → "I shall" 操作的な語が「あっても」非遂行的 観客が言う "it was over (really)" 権限のない者が言う "you were guilty" 単一の文法・語彙規則 では線を引けない → 一般理論(発語行為・発語内行為・発語媒介行為)へ
遂行文を文法・語彙だけで定義しようとする試みの行き詰まり。図:ToL

4. 遂行文は、隠れたところで「真」を要求している

行き詰まりの一方で、オースティンは遂行文と「真偽」の意外なつながりにも気づいている。「私は謝罪します」という遂行文がうまくいっている(幸福である)なら、そこから少なくとも四つのことが真でなければならない、とオースティンは順に挙げる——(1)私が実際に謝罪しているという言明そのものが真であること、(2)適切性条件のうちA・Aにあたる条件が成り立っているという言明が真であること、(3)Γにあたる条件が成り立っているという言明が真であること、そして(4)少なくとも約束のような契約的な遂行文の場合には、私がその後しかじかのことをする(あるいはしない)べきだという言明が真であること。

遂行文はそれ自体、真でも偽でもない。だが、それが「うまくいっている」ことは、周囲にいくつもの真なる言明を要求する——この観察は、事実確認文の世界(真偽の世界)と遂行文の世界(幸福・不幸の世界)が、思ったよりも深く絡み合っていることを示している。

遂行文/事実確認文、その後

文法的な基準探しが行き詰まり、しかも遂行文が周囲に「真であるべき言明」を要求することまで分かってくると、残る問いは一つになる——事実確認文自身もまた、「私は述べる」という遂行動詞を伴った、隠れた遂行文なのではないか。この問いが、最終的に「遂行文/事実確認文」という区別そのものを、より広い一般理論の中の特殊なケースへと格下げすることになる。その一般理論——発語行為・発語内行為・発語媒介行為——は、特集の別記事で扱う。