結婚式で「誓います」と言う。これは、結婚についての説明だろうか。
違う。「誓います」と言うこと、それ自体が、結婚するという行為なのだ。この一言を言う前は結婚していなくて、言った後には結婚している——「誓います」は事実を述べているのではなく、事実を作っている。
これが、1962年に出た哲学者オースティンの本『言語と行為』が出発点にした発見である。
「本当か、うそか」で測れない文がある
学校の国語や英語の授業では、文というのは何かを説明したり報告したりするものだ、と習う。そういう文には「本当」か「うそ」かがある。「今日は雨が降っている」は、実際に雨が降っていれば本当だし、降っていなければうそだ。
でも、こんな文はどうだろう。
- 結婚式で:「誓います」
- 進水式で:「この船を〇〇と名づけます」
- 遺言で:「この時計は弟にゆずります」
- 友だちに:「あした雨が降るほうに100円賭けるよ」
これらの文に、「本当」も「うそ」もない。「誓います」と言った人に向かって、「それは本当ですか、うそですか」と聞くのは変だ。その代わりに、これらの文には別の性質がある——言うことが、そのまま何かをすることになっているのだ。
オースティンは、この種の文を「遂行文」と名づけた。日本語で言えば「実行する文」というくらいの意味だ。それに対して、ふつうの「本当かうそか」を測れる文には「事実確認文」という名前をつけた。
うまくいかないこともある
遂行文には、「本当かうそか」の代わりに、別のつまずき方がある。
たとえば、結婚式もどきの芝居を舞台の上でやったとしても、役者は本当には結婚しない。船の命名式で、船を所有していない誰かが勝手に名前をつけても、それは正式な名前にはならない。誰かに「約束するよ」と言われても、その人にまったく守る気がなければ、なんだか空々しい約束になる。
オースティンは、こうした「うまくいかなさ」を二種類に分ける。
- そもそも成立しない場合——結婚式の資格がない人が式を行っても、結婚そのものが成立しない。
- 成立はするが、誠実さを欠く場合——約束は約束として成立しているが、守る気がないぶん、中身のない約束になる。
結婚するにも、船に名前をつけるにも、賭けをするにも、ふさわしい手続きとふさわしい状況、そしてふさわしい気持ちが要る——遂行文は、この「ふさわしさ」がそろって初めてうまくいく文なのだ。
「本当は」を付け足せる文
もう一つ、オースティンが見つけたおもしろい仕掛けがある。「約束するよ」は、「私はここに、約束するよ」と言い換えても、意味がまったく変わらない。「誓います」も「私はここに、誓います」と言い換えられる。
ところが、この仕掛けを、ふつうの文にも試してみるとどうなるか。「猫がマットの上にいる」は、「私はここに、猫がマットの上にいると述べる」と言い換えられる。これも意味は変わらない。
ということは——「述べる」というのも、実は「誓う」や「約束する」の仲間なのではないか。ふつうの文だと思っていた「猫がマットの上にいる」も、裏側には「私は述べる」という隠れた行為が潜んでいるのではないか。
オースティンはここで、最初に立てた「遂行文とふつうの文(事実確認文)」という線引きそのものが、実はもっと大きな見取り図のなかの、一部分でしかなかったことに気づく。
「言う」の中にある、三つの層
その大きな見取り図とは、こういうものだ。ひとつの発言には、実は三つの層が同時に含まれている。
- 何かを言うこと(「あした雨が降るなら、私は家にいる」と言葉を発すること)
- 言うことにおいて、何かをすること(それによって「約束する」「警告する」「頼む」など)
- 言うことによって、何かを引き起こすこと(相手を安心させる、驚かせる、説得する、など)
「誓います」も「猫がマットの上にいる」も、実はどちらもこの三つの層を持っている。ただ、私たちがふだん気づきやすいのが2番目の層である場合と、1番目の層(何を言っているか)にばかり気を取られてしまう場合があるだけなのだ。
この本がしたこと
まとめると、この本はこんなふうに議論を進めた。
「本当かうそか」だけを基準にすると、見落としてしまう文がある。→ その文(遂行文)を集めて調べてみると、「うまくいく・いかない」という別の基準が見えてくる。→ さらに調べを進めると、「本当かうそか」で測れるふつうの文にも、実は同じ仕組みが隠れていることが分かる。→ だから本当に必要なのは、あらゆる発言に共通する、もっと広い見取り図だ。
「ことばを発することは、たいてい、すでに何かをすることである」——これが、この小さな本がたどり着いた結論だ。
もっと詳しく、それぞれの発見を一つずつ見ていきたい人は、『言語と行為』の6つの発見を、一つずつへ。