『言語と行為』(原題 How to Do Things with Words)は、1962年にオックスフォード大学出版局から出た、12回ぶんの講義からなる本である。著者のJ・L・オースティン(John Langshaw Austin、1911–1960)は、この本の刊行を見ることなく世を去った。ランカシャーに生まれ、シュルーズベリー校からオックスフォードのベイリオル・カレッジに進み、1933年オール・ソウルズ・カレッジ、1935年モードリン・カレッジのフェローとなった古典学徒。第二次世界大戦中はイギリス陸軍情報部に勤務し、戦後オックスフォードに戻って1952年に道徳哲学の教授職(White’s Professor of Moral Philosophy)に就く。「オックスフォード日常言語学派」の中心人物として知られ、生前に発表した論文はわずか7本ほどしかない寡作の人だったが、1960年、48歳でがんのため急死した。
本書はオースティンの遺稿そのものではない。編者あとがきによれば、もとになったのは1955年、ハーヴァード大学での「ウィリアム・ジェイムズ講義」のためにオースティンが用意した講義ノートである。オースティン自身の言葉を借りれば、その考えの骨格は「1939年に形づくられ」、1946年の論文「他人の心」(“Other Minds”)で初めて活字になり、1952〜54年にはオックスフォードで「ことばと行為」(“Words and Deeds”)と題した講義として毎年練り直された。ハーヴァードのための講義ノートはその集大成だが、文章としては断片的な部分も多く、編者J・O・アームソン——後の版で共編者となるM・シズビが加わるのは1975年の第二版から——が、アメリカ・イギリス両方の聴講者のノート、BBCラジオの「遂行的発話」講演、1959年イェーテボリでの講演テープなどと突き合わせながら、最小限の補筆で一冊にまとめた。だから本書は、オースティンが「自分で本にしていたら、もっと違う形になっていただろう」(アームソンの序文が明言する)一冊であり、繰り返しの多さや詰めの甘さも含めて、講義そのものの息づかいを伝える。
1. 出発点——「文」はみな真か偽かを述べる、という思い込み
第1講の冒頭、オースティンは哲学の長年の前提を疑うところから始める。
It was for too long the assumption of philosophers that the business of a ‘statement’ can only be to ‘describe’ some state of affairs, or to ‘state some fact’, which it must do either truly or falsely. (あまりに長いあいだ哲学者たちは、「言明(ステートメント)」の仕事とは何かの事態を「記述」すること、何かの事実を「述べる」ことでしかありえず、それは真か偽かのどちらかでなければならない、と思い込んできた。ギリシア語やラテン語ではなく英語からの引用の日本語訳・英訳は ToL による。以下同じ。)
文法学者はとうに、疑問文・命令文・感嘆文など「言明」以外の文があることを指摘していた。だが哲学の側では、「検証できる言明だけが意味を持つ」という論理実証主義的な発想から、多くの「言明」がじつは疑似言明(ナンセンス、あるいは感情の表出、規範の宣言など)にすぎないという議論が進んでいた。オースティンはこの流れを引き取りながら、まったく別の角度から切り込む——そもそも「記述」や「事実の報告」だけを仕事にしていない文がある、しかもそれは特殊な例外ではなく、ごくありふれた文だ、と。
2. 遂行文の発見——結婚式、進水式、賭け
オースティンが最初に挙げる例は、次の四つである(原文の日本語訳・英訳は ToL による)。
- (E. a) ‘I do (sc. take this woman to be my lawful wedded wife)’ —— 結婚式で誓うときの「誓います」
- (E. b) ‘I name this ship the Queen Elizabeth’ —— 進水式でびんを船体に打ちつけながらの「命名する」
- (E. c) ‘I give and bequeath my watch to my brother’ —— 遺言のなかの「遺贈する」
- (E. d) ‘I bet you sixpence it will rain tomorrow.’ —— 「6ペンス賭ける」
これらの文には共通する性質がある。何かを記述しても報告してもいないし、真でも偽でもない。そして、その文を発すること自体が、ある行為の遂行そのものである。
To name the ship is to say (in the appropriate circumstances) the words ‘I name, &c.’. When I say, before the registrar or altar, &c., ‘I do’, I am not reporting on a marriage: I am indulging in it. (船に名づけることは、〔適切な状況で〕「命名する云々」という言葉を言うこと、それ自体である。戸籍係や祭壇の前で「誓います」と言うとき、私は結婚について報告しているのではない。結婚という行為そのものをおこなっているのだ。)
オースティンはこの種の文を「遂行文(performative sentence)」、短く「遂行文(a performative)」と名づける——「行為(action)」を表す動詞”perform”から作った造語である(脚注では、以前使っていた「performatory」という語形より短く扱いやすいと明かしている)。これに対して、真偽を問える通常の言明——事実を「記述」する文——には「事実確認文(constative)」という対の名を与える。「記述的」という言葉をそのまま使わなかったのは、あらゆる真の言明が「記述」と呼べるわけではない(たとえば倫理的命題)と考えたからだ、と注記されている。
3. 明示的な遂行文と「hereby」テスト
遂行文の中でも、“I promise”, “I warn”, “I bet” のように、行為の名そのものを一人称単数・現在形・直説法・能動態の動詞で言い表す形を、オースティンは「明示的遂行文(explicit performative)」と呼ぶ。これは”I hereby promise…”のように「hereby(これをもって)」という語を挟んでも文意が変わらない、という簡便なテストで見分けられる。
明示的遂行文の考え方を使うと、一見ふつうの言明に見える文の裏にも、隠れた遂行が見つかる。
‘Out’ is equivalent to ‘I declare, pronounce, give, or call you out’ … ‘You are warned that the bull is dangerous’ is equivalent to ‘I, John Jones, warn you that the bull is dangerous’ or ‘This bull is dangerous. (Signed) John Jones.’ (「アウト!」は「私はあなたをアウトだと宣言・言明・与える・告げる」に等しい。……「この雄牛は危険だと警告されています」は「私、ジョン・ジョーンズは、この雄牛が危険であるとあなたに警告する」、あるいは「この雄牛は危険である。(署名)ジョン・ジョーンズ」に等しい。)
審判の「アウト!」も、標識の「警告」も、明示的な形に展開すれば、そこに一人称の行為者と行為の名が姿を現す——法廷の「有罪」判決についても同じことが言える、とオースティンは付け加える。これが、この段階でのオースティンの見立てである。
4. うまくいかないこともある——適切性条件
遂行文には、真偽の代わりに別の失敗のしかたがある。結婚式の誓いも、船の命名も、然るべき手続き・然るべき人物・然るべき状況がそろって初めて「うまくいく」。オースティンはこれを「幸福性/不幸性(happiness/unhappiness)」の軸と呼び、うまくいかない場合を「不適切性(infelicity)」の名でまとめて分類する。手続きが正しく執行されない場合は「空振り(misfire)」(結婚は成立すらしない)、手続きは成立するが誠実さを欠く場合は「濫用(abuse)」(気のない「約束します」など)——この区別を軸に、六つの規則(A.1・A.2・B.1・B.2・Γ.1・Γ.2)が立てられる。詳しくは特集の別記事で扱う。
5. 区別が崩れる——遂行文と事実確認文の境目
第4講以降、オースティンは遂行文を文法的にきちんと定義しようと、動詞のリストを作る作業に取りかかる。だがこの努力は、皮肉な結末を迎える。「明示的遂行文への展開」というテストを、ふつうの事実確認文にも当てはめてみると——“The cat is on the mat”(猫はマットの上にいる)は、“I state that the cat is on the mat”(私は猫がマットの上にいると述べる)に展開できてしまう。ならば、あらゆる言明は「述べる(state)」という遂行動詞を伴った、隠れた遂行文なのではないか。
第12講の要約で、オースティンはこの経緯をこう振り返る。
The doctrine of the performative/constative distinction stands to the doctrine of locutionary and illocutionary acts in the total speech act as the special theory to the general theory. (遂行文/事実確認文の区別という学説は、発語行為と発語内行為という学説に対して、「全体としての発話行為」のなかでの特殊理論が一般理論に対するのと同じ関係に立つ。)
つまり、遂行文/事実確認文という二分法そのものが放棄されるわけではないが、それは万能の枠組みではなく、より広い理論——「言うこと」そのものを分析する一般理論——の中の、一つの特殊なケースに位置づけ直される。
6. 一般理論へ——発語行為・発語内行為・発語媒介行為
第8講でオースティンが立てる一般理論は、一つの発話に含まれる三つの行為を切り分ける。
一つの発話は、まず何ごとかを言う(発語行為)。だが同時に、その発話は言うことにおいて(in)何かを為している——警告する、頼む、約束する、命じる、といった、慣習に支えられた行為(発語内行為)。そしてさらに、その発話は言うことによって(by)何かを引き起こすこともある——説得する、驚かせる、怒らせる、といった、聞き手に生じる結果(発語媒介行為)。「発語内(illocutionary)」「発語媒介(perlocutionary)」という名前そのものが、この”in”と”by”の違いから作られている。
かつての「遂行文/事実確認文」の区別は、実は発語行為(意味)と発語内行為(力)の区別を、「明示的遂行文」という特殊な文型でしか捉えていなかった——というのが、一般理論からの見立てである。
7. 発語内行為の分類——五つの「感じの悪い名前」
最終講(第12講)でオースティンは、発語内行為をおおまかに五つに分類する試みを示す。本人の言葉を借りれば「あまり気に入ってはいない、いくぶん感じの悪い名前」だが、それぞれ判定(verdictive)、権能行使(exercitive)、約束(commissive)、態度表明(behavitive、本人いわく「衝撃的な語」)、言明(expositive)という五類である。詳しい定義と実例は、特集の別記事にゆずる。
まとめ
| 論点 | 『言語と行為』の答え |
|---|---|
| 出発点 | 「言明はみな真偽を問える記述だ」という哲学の思い込みを疑う |
| 遂行文の発見 | 「誓います」「命名する」「賭ける」——発することがそのまま行為になる文がある |
| 遂行文/事実確認文 | 前者は真偽を問えず「幸福/不幸」を問える。後者は真偽を問える |
| 適切性条件 | 手続き・人物・状況・誠実さがそろわないと「空振り」や「濫用」になる |
| 区別の崩壊 | あらゆる言明も「I state that…」に展開できる——両者の境目は絶対ではない |
| 一般理論 | 発語行為(言うこと)・発語内行為(言うことにおいて為すこと)・発語媒介行為(言うことによって為すこと) |
| 発語内行為の分類 | 判定・権能行使・約束・態度表明・言明の五類(試論) |
一言でいえば——ことばを発することは、多くの場合すでにひとつの行為である。「本当か偽か」だけを尺度にする限り、その大部分は見えないままになる。
なぜ今も読まれるか
『言語と行為』はオースティンの死の2年後、講義ノートから編まれた一冊でありながら、「言語行為論(speech act theory)」という新しい分野そのものを立ち上げた。教え子のジョン・サールは1969年の『言語行為』でこの枠組みを整理・体系化し、発語内行為の分類(サール自身は五類を組み替えている)や「構成的規則」の概念を発展させた。一方、ウィトゲンシュタインが同時期に唱えた「意味とは使用である」というテーゼは、方向は違えど、「文の意味を、その使われ方から見る」という同じ知的空気を吸っている——オースティンとウィトゲンシュタインは同時代のオックスフォード/ケンブリッジで、それぞれ独立に「言語は世界を写し取るだけではない」という結論にたどり着いた。
アリストテレスが『命題論』で、真偽を問える「言明(アポファンティコス・ロゴス)」だけを論理学の対象として切り出し、祈りのような文をあらかじめ除外していたことを思い出すなら——オースティンがしたのは、アリストテレスが脇へ置いたその「祈りのような文」を、二千年以上たってから舞台の中央に引き戻す作業だった、と言えるかもしれない。言語哲学だけでなく、法哲学(法律の言葉づかいそのものが遂行的だ、という視点)、フェミニズム批評(ジュディス・バトラーの「行為遂行性」概念)、AIの対話システム設計にいたるまで、「言うことは、すでに何かをすることだ」という洞察は、分野を越えて参照され続けている。