『赤ずきん』『白雪姫』『ヘンゼルとグレーテル』——世界中の子供が読んできたこれらの話は、すべてヤーコプ・グリムと弟ヴィルヘルム・グリムが編んだ『子供と家庭のメルヒェン集』(初版1812年)に収められている。だが同じヤーコプが、この特集で扱う『ドイツ語文法』の著者でもあり、さらに一冊の辞書に生涯を捧げ、政治的な理由で大学を追われてもいる。一見バラバラなこれらの仕事は、実は一つの筋でつながっている。

「民族の言葉」を、あるがままに

グリム兄弟が活動した19世紀初頭のドイツは、まだ一つの国家ではなく、数十の領邦に分かれていた。そんな時代に、哲学者ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーらが唱えた考え方がある——一つの民族には、その言葉・歌・物語のなかに独自の「精神」(Volksgeist)が宿っているという思想だ。グリム兄弟のメルヒェン集めは、この考え方を実践に移す仕事だった。農民や庶民のあいだで語り継がれてきた話を、洗練させたり教訓を足したりせずに、できるだけ聞いたとおりに書き留める——これが二人の編集方針だった(版を重ねるなかで多少の手直しは加えられていったが、原則はここにある)。

同じ姿勢が、文法研究にも向けられている。『ドイツ語文法』でヤーコプが目指したのは、規則を上から押しつけることではなく、ゲルマン語派の言葉が実際にたどってきた歴史的な変化を、あるがままに記述することだった。メルヒェンにせよ文法にせよ、対象への向き合い方は同じ——すでにそこにあるものを、手を加えずに、丁寧に写し取るという態度である。

生涯をかけた辞書、そして道半ばの死

1838年、グリム兄弟はさらに大きな仕事に着手する——『ドイツ語辞典』(Deutsches Wörterbuch)、ドイツ語のあらゆる単語を、語源から実際の用例まで網羅する一大辞典の編纂だ。この仕事がどれほど巨大だったかは、その後の経緯が物語っている。ヤーコプは1863年、この辞典の「フルーメ」(Frucht、「果実」)の項目を執筆している最中に世を去った。辞典全体が完成したのは、実に1961年——兄弟の死から一世紀近くのちのことである。

王に逆らって職を失う

グリムの仕事は、書斎にこもった学者のそれだけではなかった。1837年、ヤーコプはゲッティンゲン大学の教授として、他の6人の同僚とともに、ハノーファー王エルンスト・アウグスト1世が憲法を一方的に廃止したことに公然と抗議する。この抗議に加わった7人は、のちに「ゲッティンゲンの七教授」(Göttinger Sieben)として知られることになるが、その代償は大きかった——全員が教授職を追われ、ヤーコプを含む3人は国外追放にまでなった。言語や民話を「あるがままに」尊重する態度は、政治権力が一方的に取り決めを変えることへの抵抗とも、地続きだったことになる。

1812 メルヒェン集 1822 文法第2版 1837 七教授事件で失職 1838 辞典に着手 1863 死去(辞典は道半ば) 1961 辞典完成 メルヒェン・文法・辞典・政治——すべてに共通するのは「あるがままを尊重する」という一貫した態度
グリムの複数の仕事——一つの筋でつながる年表。図:ToL

まとめ

仕事共通する態度
『子供と家庭のメルヒェン集』1812年〜民衆の言葉を、手を加えずに書き留める
『ドイツ語文法』第2版1822年言語の歴史的変化を、あるがままに記述する
ゲッティンゲン七教授事件1837年一方的な取り決めの変更に抗議する
『ドイツ語辞典』1838年着手、1961年完成ドイツ語のすべての単語を、実例とともに記録する

一言でいえば——メルヒェンも文法も辞書も、そして王への抗議さえも、グリムにとっては同じ一つの態度の現れだった。すでにそこにあるものを、権力や思いつきで書き換えず、あるがままに尊重する。この特集で読む「グリムの法則」も、この態度が言語の音の変化に向けられたときに生まれたものである。