概説記事で見たとおり、大槻文彦は、手本のないところから『言海』の設計をゼロから組み立てなければならなかった。その設計方針を、大槻自身がどう説明しているか、原文で読む。

「この本は何を収める辞書なのか」

『言海』の凡例は、「本書編纂ノ大意」(本書編纂の大意)と題され、こう書き出される。

此書ハ日本普通語ノ辭書ナリ。凡ソ普通辭書ノ體例ハ専ラ其國普通ノ單語若クハ熟語二三語合シテ別ニ一義ヲ成スモノヲ挙ゲテ、地名人名等ノ固有名稱或ハ高尚ナル學術専門ノ語ノ如キハ收メズ。

(この本は、日本の普通の単語を集めた辞書である。おおよそ普通の辞書の体裁というものは、もっぱらその国の普通の単語、あるいは二、三語が結びついて別に一つの意味をなす熟語を取り上げるものであって、地名・人名などの固有名詞や、高尚な専門学術用語のたぐいは収録しない。)

たった二文で、大槻は『言海』の輪郭をはっきりと描いている。「普通語」の辞書であるという宣言と、それに伴う除外規定——固有名詞や専門用語は対象外とする、という線引きである。この割り切りがあったからこそ、限られた歳月のなかで、一人の手による辞書として完成にこぎつけることができた。もし固有名詞や専門用語まで収めようとしていたら、必要な調査の範囲は際限なく広がり、概説記事で見た14年という歳月では、到底完結しなかっただろう。

五つの情報を、単語ごとに

続けて大槻は、収録した単語一つひとつに、どんな情報を付けるべきかを列挙していく。

辭書ニ舉ゲタル言語ニハ左ノ五種ノ解アラムコトヲ要ス……其一、發音(Pronunciation)。發音ノ異ナルモノニハ其符アルヲ要ス。例ヘバ「さいはひ」ハ「さいはひ」……其二、語別(Parts of speech)。

(辞書に挙げた語には、左の五種の説明があることを要する……その一、発音。発音の異なるものには、その印を付ける必要がある。たとえば「さいはひ」は「さいはひ」……その二、品詞の別。)

発音、そして品詞——前の2本の記事で紹介した情報層が、ここで具体的な例とともに規定されている。 「あふひ」「あふぐ」のように、当時の表記では区別のつきにくかった発音を、あえて一つひとつ書き分けて示す——この細部への徹底したこだわりが、五十音順という骨格に、実際に使える肉づけを与えている。

何を収めるか 普通語のみ 固有名詞・専門語は除外 どう記述するか 発音・品詞など 五種の情報を単語ごとに 範囲を絞り込み、その範囲を徹底的に描き切る——大槻の一貫した姿勢
「本書編纂ノ大意」に示された、二つの基本方針。図:ToL

割り切りの徹底が、完成を可能にした

この二つの引用に共通するのは、大槻が、できることとできないことを、早い段階ではっきりと線引きしているという姿勢である。すべての単語、すべての情報を网羅しようとすれば、この事業は永遠に終わらなかっただろう。「普通語」という範囲に絞り込み、そのうえで、発音・品詞という定めた項目については徹底して描き切る——この割り切りの姿勢こそが、一人の手による14年という歳月のなかで、『言海』を実際に完成させた、もっとも実務的な知恵だったと言える。

まとめ

論点内容
収録範囲の宣言「普通語」の辞書である——固有名詞・専門語は収めない
記述項目の規定発音・品詞など、単語ごとに五種の情報を付す方針
姿勢の核心範囲を絞り込み、その範囲は徹底して描き切る

一言でいえば——「この本は何を収める辞書なのか」という、もっとも根本的な問いへの答えを、大槻はまず自分自身にはっきりと突きつけ、そのうえで筆を進めた。