第1章で見たとおり、アリストテレスは記号の恣意性を声と文字だけに限定し、その奥にある概念は万人に共通だと考えた。第2章で見たポール・ロワイヤルは、その共通の心の働きから、一つの「一般理性文法」を導こうとした。19世紀、プロイセンの外交官にして言語学者だったヴィルヘルム・フォン・フンボルトは、この二つの前提——「概念は共通」「文法は導き出せる完成品」——を、両方とも覆す。

文法書は「死んだ堆積物」にすぎない

フンボルトの根本テーゼは、遺著の冒頭近くに置かれている。

言語は、その本当の本質において捉えれば、絶えず、どの瞬間にも過ぎ去っていくものである。……言語それ自体は作品(エルゴン)ではなく、活動(エネルゲイア)である。

これは、ポール・ロワイヤルの企てそのものへの、静かだが根本的な異議である。ポール・ロワイヤルは、心の三作用(概念する・判断する・推論する)から品詞のすべてを導き出し、一つの体系として書き記そうとした(第2章)。フンボルトに言わせれば、そうやって書き記された文法書や辞書は、生きた言語の「死んだ堆積物」にすぎない。実在するのは、話し手がそのつど言語を産み出す行為そのものであり、「言語の真の定義は発生的なものでしかありえない」。文法とは、完成した設計図ではなく、話すという行為の中でしか存在しない何かなのだ。

概念は、もう「共通」ではない

もう一つの覆しは、さらに射程が長い。アリストテレスは「記号の奥にある概念(心のうちの印象)は万人に同じだ」と前提していた(第1章)。フンボルトはこう書く。

語は「対象そのものの写し」ではなく、「対象が心のなかに産み出したの写し」だ。

対象そのものではなく、対象が各言語の話者の心のなかに産み出す像——この一言で、アリストテレスの前提は崩れる。概念は万人に共通ではなく、言語によって違う形をとる。フンボルトはこれをさらに大胆な比喩で言い切る。

どの言語も、それが属する民族のまわりに一つの円を描く。その円から出ることは、同時に別の言語の円へ踏み入るかぎりにおいてのみ可能である。

アリストテレス(前4世紀) 記号(声・文字)は恣意的 概念(心のうちの印象)は 万人に共通・自然 → 一つの世界の、一つの見え方 フンボルト(19世紀) 概念は「対象そのもの」ではなく 「心が産み出した像」 言語ごとに違う世界観(Weltansicht) → 言語の数だけ、世界の見え方がある
アリストテレスが「共通」とみなした概念の場所に、フンボルトは言語ごとの多様性を見出す。図:ToL

一人では成り立たない

フンボルトのもう一つの主張が、静かに効いてくる。「言語は思考を形づくる器官である」——思考は言語一般だけでなく、個々の特定の言語のかたちに依存する。そして、その言語は一人では成り立たない。「すべての語りは対話にもとづく」。「私」という語が可能なのは、すでに「君」が含まれているからだ。

ここにも、ポール・ロワイヤルとの静かな対比がある。ポール・ロワイヤルの三作用(概念する・判断する・推論する)は、一人の精神の中で完結する働きとして描かれていた。フンボルトにとって、言語は本質的に複数の精神のあいだでしか生きられない。個人の心から出発したポール・ロワイヤルの企ては、フンボルトの手で、そもそも成り立たない前提の上に立っていたことになる。

何が受け継がれ、何が反転したか

フンボルトが受け継いだのは、「言語のかたちには理由がある」という、ポール・ロワイヤル以来の確信そのものだ。だが、その理由を普遍的で固定した心の構造に求める発想は反転する——理由は、個々の言語がそれぞれ育んできた、多様で生きた活動の中にしかない。これは、概観で示した軸で言えば、構造の側から働きの側への、はっきりした移動である。

この転回は、二つの遺産を残した。一つは「言語=世界観」というテーゼそのもの——複数の言語は優劣なく並び立つ、という考え方は、20世紀、大西洋の向こうでアメリカの人類学者が引き継ぐことになる(第5章)。もう一つは、フンボルト自身が触れた「有限の手段の無限の使用」という一節——話し手は有限の規則から無限の文を生み出す、という洞察で、これは20世紀後半、まったく違う道具立てで蘇る(第6章)。

だが、フンボルトの直後に続くのは、この振り子をふたたび反対側へ押し戻す仕事である。スイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュールは、「活動」としての言語(フンボルトが重んじた、話し手による生きた発話、パロール)をあえて研究対象から外し、個人の意志の外側にある、共時的な体系として言語(ラング)を捉え直す。エネルゲイアからふたたびエルゴンへ——ただし、アリストテレスの静的な記号論とは違う、まったく新しい意味での体系として。