前章の終わりで触れたとおり、フンボルトの「言語は働きである」というテーゼから半世紀ほどのち、スイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュールは、その「働き」をあえて研究の対象から外す。
ラング/パロール——「働き」を外に出す
ソシュールはまず、「言語」ということばが指す範囲を三つに切り分ける(記事008)。個人ごとの、そのつどの発話行為であるパロール(parole)。人類に共通する能力としてのランガージュ(langage)。そして、ある共同体が共有する、社会的な規約の体系としてのラング(langue)。ソシュールが言語学の対象と定めたのは、このラングだけだ。
フンボルトが言語の本体だと見た「話すという行為」——まさにパロールにあたるもの——は、ここで研究の外へ出される。個人差が大きく、体系的な研究になじまない、というのがその理由だ。エネルゲイア(活動)を切り捨て、エルゴン(作品)としてのラングだけを見る——これは一見、アリストテレスやポール・ロワイヤルの側への回帰に見える。だが、ソシュールが見出したラングは、二人が思い描いた体系とは、まるで別物だった。
恣意性を、もう一度、第一原理として
ソシュールは、アリストテレス以来ほとんど疑われずに引き継がれてきた「ことばは取り決めによる」という公理を、あらためて根拠づけ、第一原理の地位に据え直す。
シニフィアンとシニフィエを結ぶ絆は恣意的である。……言語記号は恣意的である。
ただし、と注意も加える。「恣意的」とは「話す人が自由に選べる」という意味ではない。ソシュールが言うのは「無契的(immotivé)」——記号の形と意味のあいだに理由がない、ということだ。個人が記号を勝手に変えることはできない。記号は共同体によって、一人ひとりに課されている(記事020)。アリストテレスが公理として据え、二千年以上ほとんど吟味されなかった前提を、ソシュールはここで正面から掘り起こし、言語学という学問全体の土台として据え直す。
「もの」が、そもそも存在しない
だが、ソシュールの体系がアリストテレスやポール・ロワイヤルと決定的に違うのは、ここから先である。
言語には差異しかない。それどころか——差異はふつう、そのあいだに差異が成り立つ積極的な項を前提とする。だが言語には、積極的な項なしの差異しかない。
アリストテレスの記号は、恣意的な形(声)の奥に、万人に共通の概念という積極的な内容を持っていた(第1章)。ポール・ロワイヤルの品詞は、心の三作用という積極的な内容の写しだった(第2章)。ソシュールの体系には、そうした「積極的な内容」がそもそもない。ある語の価値は、他のすべての語とどう違うかによってのみ決まる。「羊」が意味を持つのは、それが「羊肉」と別の語であり、英語の sheep が mutton と切り分ける境界とは違う境界を引いているからにすぎない(記事022)。
もう一つ、ソシュールが持ち込んだ切り口がある。同じ言語を、ある一瞬で静止させて見る共時態と、時間を通じた変化として見る通時態——この二つを厳密に分けることで、言語学は初めて、過去の語源を追いかけるだけの学問(19世紀の歴史・比較言語学)から独立した、体系そのものを記述する学問になる(記事021)。
何が受け継がれ、何が反転したか
ソシュールが受け継いだのは、アリストテレスの公理(恣意性)と、体系として言語を捉える構えそのものである。だが、その体系の中身は反転した。アリストテレスとポール・ロワイヤルは、記号の奥に「概念」や「心の作用」という積極的な実体を置いた。ソシュールは、そこに実体を置かない——あるのは、他との違いという、関係の網の目だけだ。名づけを待つ「もの」がそもそも存在しない、という点で、ソシュールはアリストテレス以来の記号観そのものを組み替えている。
そして、フンボルトが重んじた「働き」(パロール)を外に出したことで、ソシュールの体系は、話し手の個人差や、言語が実際に使われる場面を、視界の外に置くことになった。この切り捨てへの異議は、二つの方向から起きる。一つは、言語を文化・人種・歴史の中に置き戻そうとした、大西洋の向こうの人類学者から(第5章)。もう一つは、20世紀後半、語の意味を辞書的な体系にではなく、生きた使用の場面に見出そうとした哲学者たちから(第6章)。