この特集は、概説記事から始まり、陳述論とその原文精読、係り結びの仕組みとその原文精読、そして橋本進吉や時枝誠記への系譜をたどってきた。最後に、この100年以上前の大著を、現在の視点から採点する。
今も残っているもの
「文は、最後まで言われて初めて、何をする文なのかが確定する」という洞察——やさしい解説の記事で見た、陳述論の核心にある発見そのものは、今日の日本語文法研究でも、揺らぐことなく受け入れられている。文末の形式が文全体の機能を左右するという事実は、現代の統語論・意味論の研究でも、重要な出発点であり続けている。また、「陳述」という用語そのものも、別の記事で見たとおり、今も基本語彙として生きている。係り結びという現象についても、山田が体系的に位置づけたその骨格——「ぞ・なむ・や・か」と「こそ」が、それぞれ異なる文末の形へと結ぶ、という基本的な観察——は、今日の古典語研究でも、当然の前提として受け継がれている。
書き換えられたもの
一方で、山田が「陳述」の仕組みそのものを説明するのに使った、ドイツ心理学の「統覚作用」という枠組みは、そのままの形では、今日の言語学にはほぼ受け継がれていない。別の記事で見たとおり、時枝誠記は、この「話し手の心のなかの静的な働き」という説明そのものに異を唱え、言語を話す・聞くという行為の「過程」として捉え直す、まったく別の理論を対置した。今日の言語学では、文の完結性やモダリティ(話し手の心的態度を表す文法カテゴリ)は、山田のような心理学的な概念よりも、話し手と聞き手のあいだのコミュニケーション行為として説明されることが多い。
一人の学者の中の、二つの遺産
前の記事で見たとおり、山田文法の体系そのものは、学校教育の場では、橋本進吉のより実用的な文節理論に道を譲った。しかし、これは山田の仕事が失敗だったことを意味しない。むしろ、「陳述」という発見そのものの価値と、それを説明するために選んだ理論的な道具の耐久性は、別々に評価されるべきだ、ということを、山田の物語は教えてくれる。同じ教訓は、このサイトのブルークマンの特集やアンソニーの特集でも、繰り返し確認してきたものである。
まとめ
| 判定 | 対象 |
|---|---|
| 今も残る | 文末が文を完結させるという洞察/「陳述」という用語/係り結びの体系的な位置づけ |
| 書き換えられた | 統覚作用というドイツ心理学の枠組みによる、陳述の仕組みそのものの説明 |
| 踏まえておきたい教訓 | 発見の価値と、それを説明する理論的道具の耐久性は、別々に評価すべきである |
一言でいえば——山田孝雄が見つけた「文は最後まで言われないと完結しない」という洞察は、100年以上たった今も生きている。だが、なぜそうなるのかを説明する彼自身の理論は、次の世代によって、幾度も書き直されてきた。