概説記事で見たとおり、松下大三郎の文法は、「を」や「に」を単語と見ないところから始まる。では、どういう単位で、文を見るのか。『標準日本文法』の第五章「言語の体系」を、やさしく読む。(以下、引用の現代語訳は ToL による。)
三つの階段
松下は、言語の構成を、次のように整理する。
言語の構成上には、其の内面たる思想の構成上の三階段に順応する三階段が無ければならない。即ち断定に対しては断句、観念に対しては念詞、観念材料に対しては原辞、此の三階段が有る。
(言語の組み立てには、その内側にある思想の組み立ての三つの段階に対応する、三つの段階がなければならない。すなわち、断定に対しては断句、観念に対しては念詞、観念の材料に対しては原辞、という三つの段階がある。)
ここに、松下の用語が三つ出てくる。
| 用語 | 何に対応するか | ふつうの言い方に近いもの |
|---|---|---|
| 断句 | 断定(話の一まとまり) | 文 |
| 念詞(略して詞) | 観念(一つの考え) | 文節に近い単位 |
| 原辞 | 観念の材料 | 詞の部品(語の一部、助詞、助動詞など) |
断句——意味が切れるところまで
断句は、話の単位である。松下は、こう説明する。断句は、意味の切れているもので、いくら長くても、意味が切れないうちは、まだ一つの断句にならない。意味の切れるところまで行って、はじめて一つの断句なのだ、と。
(松下は、この断句を「説話の単位」と呼ぶ。)
念詞——「花を」も「咲きたり」も一つ
念詞は、松下が、いちばん力を入れる単位である。これは、自分だけの力で、一つの観念を表すものである。「山」「河」「往く」「遠し」などが、その例として挙がる。
では、「花を」「月に」「咲きたり」は、どうなるか。ここが、学校で習う文法と、大きく違うところである。松下は、こう言う。
「を」「に」「たり」「けり」は自身は一詞ではなく、詞へ附いて「花を」「月に」「咲きたり」「出でけり」などとなつて、「花」「月」「咲き」「出で」と共に一詞になるのである。
(「を」「に」「たり」「けり」は、それ自身は一つの詞ではなく、詞に付いて、「花を」「月に」「咲きたり」「出でけり」などとなり、「花」「月」「咲き」「出で」といっしょに、一つの詞になるのである。)
つまり、松下の考えでは、「花を」で一つの詞、「咲きたり」で一つの詞である。「を」や「たり」は、単語として数えない。
原辞——詞の部品
「を」や「たり」は、では、何なのか。松下は、これを原辞と呼ぶ。原辞は、詞の材料である。第二編「原辞論」の書き出しは、こうである。
原辞論は文法学の二分科の一つであって、念詞の材料たる原辞の、念詞中に於ける文法的法則を論ずるものである。
(原辞論は、文法学の二つの分野の一つであって、詞の材料である原辞が、詞の中でどういう文法上の決まりに従うかを論じるものである。)
原辞は、「を」や「たり」のような付属的なものだけではない。松下は、「学生らしい」を例に挙げる。「学生らしい」は、一つの詞である。「らしい」は、それだけでは一つの観念を表さないので、「学生」と「らしい」の二つの詞に分けることはできない。ただし、「学」「生」「らしい」の三つの原辞には、分けることができる、と言う。
なぜ、この分け方が面白いのか
この見方で読むと、ふだんの文の見え方が、少し変わる。
- 「花を」の「を」は、花にくっついて、はじめて働く。松下は、「を」だけで一つの詞とは数えない。
- 「学生らしい」のような、いわゆる接尾辞のついた形は、一つの詞として、まとめて扱える。
- 文法学を、詞の部品を扱う分野(原辞論)と、詞そのものを扱う分野の二つに分ける。原辞論は、「文法学の二分科の一つ」と書かれている。
読むうえで、確かめておきたいこと
この記事で紹介した松下の見方は、松下の体系の、入口である。次の点に、注意してほしい。
第一に、「念詞」は、学校文法の「文節」と、まったく同じではない。 似ている点は多いが、松下は、自分の基準(自分だけで一つの観念を表すか)で決めている。同じと言い切ることは、しない。
第二に、この三階段の見方が、正しいか、便利かは、別の問題である。 それは、判定の記事で整理する。
まとめ
| 論点 | 内容 |
|---|---|
| 三つの階段 | 断句(話の単位)・念詞(詞)・原辞(部品) |
| 詞 | 自分だけの力で、一つの観念を表すもの。「花を」「咲きたり」も一つの詞 |
| 「を」「たり」 | それ自身は詞ではなく、詞に付いて一つの詞をつくる部品 |
| 原辞 | 詞の材料。「学生らしい」は、「学」「生」「らしい」の三つの原辞からなる |
一言でいえば——松下大三郎は、「を」や「たり」を単語とは数えず、それらが付いた「花を」「咲きたり」を、一つの詞と見た。