前章で見たとおり、1861年、ミュラーとシュライヒャーによって、振り子はもっとも大きく「自然法則」の側へ振れた。この章で読むカール・ブルークマンは、一見するとその振れ幅をさらに押し広げた人物に見える。だが、彼一人の仕事の中に、次の反転の芽も、すでに含まれていた。
例外なき法則——自然法則側、もっとも強い言葉
1886年、『比較文法要説』の序文で、ブルークマンは自分の世代の姿勢を、脚注にこう書き記す。
Unser Aller Streben geht heute dahin, den Ausnahmen und Unregelmässigkeiten gegenüber nicht nur gelegentlich, sondern jedesmal und systematisch nach dem die Ausnahmestellung bedingenden Grunde zu suchen, und wir halten die Aufgabe der Wissenschaft so lange für unerledigt, bis die Antwort auf das Warum gefunden ist.
(われわれすべてが今日目指しているのは、例外や不規則性に対して、時折ではなく、そのたびごとに、体系的に、その例外を条件づけている理由を探し求めることである。そして、「なぜか」という問いへの答えが見出されるまで、われわれは学問の課題を未完了とみなす。)(記事127)
これは、前章のシュライヒャーよりも、さらに徹底した主張である。シュライヒャーは、言語を「生きているが歴史を持たない自然物」だと言い切った。ブルークマンの世代——青年文法学派——は、そこからさらに進んで、音の変化には、例外なく、機械的な法則があると主張した。ヴェルナーが第2章で示した「例外にも理由がある」という発見は、ここで、比較言語学の中心原則にまで格上げされる。
しかし、もう一つの力を認めていた——類推
ところが、この同じ学者が、同じ本の中で、音法則だけでは説明のつかない現象があることも、率直に認めている。それが「類推」である。既存の語形パターンを、話し手が別の語にも当てはめてしまう現象——子どもが「行った」を真似て「食べった」と言ってしまうような、きわめて人間的な力である(記事126)。
音法則は、音そのものが機械的・無意識に変化する現象。類推は、話し手が意識せずとも、既存のパターンを別の語に「借りてくる」現象。 前者は言語を自然物として扱う発想の延長線上にあるが、後者は、話し手という人間の行為を、変化の主体として認める発想である。ブルークマンは、この二つを対にして扱うことで、初めて、多くの「例外」に体系的な説明を与えることができた。
自分の位置づけと、同時代からの反論
ブルークマン自身、自分の記述法を、前章までのボップとシュライヒャーの「ちょうど中間」に位置づけている(記事128)——先人を乗り越える対象としてではなく、統合すべき遺産として扱う姿勢である。そして、本書刊行のわずか1年前の1885年、オーストリアの言語学者フーゴー・シューハルトは、「音法則は例外なく働く」という原則そのものに、すでに公然と異を唱えていた(記事129)。ブルークマンの確信は、決して当時の全員に共有されていたわけではなかった。
まとめ
| 論点 | 内容 |
|---|---|
| 音法則(自然法則側) | 音の変化には、例外なく機械的な法則がある——この系譜でもっとも強い自然法則の主張 |
| 類推(人間の営み側) | 話し手が既存のパターンを別の語に当てはめる、人間的な力 |
| 一人の中の振り子 | 同じ学者が、同じ本の中で、両方の力を認めた |
一言でいえば——ブルークマンは、自然法則の側でもっとも強い言葉を掲げながら、同時に、人間の側への扉を、自分の手で開けていた。次章では、その扉の先へ、思想が本格的に踏み出していく様子を見る。